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ディーン・シマウチ翻訳事務所
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字 幕翻訳者の戯言 アーカイ ヴ     167          < リスト へ >
「ドキュメンタリー・ストー リーテリング」
 フィルムアート社から「ドキュメンタリー・ス トーリーテリング クリエイティブ・ノンフィクションの作り方」が出 ました。翻訳依頼を受けてから既に一年近く。随分長く寝かされておりましたが、出版にもい ろいろ都合があるのでございます。ドキュメンタ リーを、真実を曲げず、嘘をつかずに興味深く「語ろう」という精神に則って書かれた本書は、ネタ探しか ら企画開発、資金調達、リサーチ、撮影、編集、企画売り込みに至るまで、制作全行程を物語を紡ぐ工程と して捉え、それぞれの段階に臨む心構えや必要な段取り、知っていると得なことや取材のマナーまで、実に 丁寧に解説してくれます。488ページという大作ですが、映画作りの様々な局面が楽しく、いい教科書で あり、いい読み物でもあります。台割以前に「あとがき」を書いたのですが、案の定長すぎ(笑)、かなり 圧縮したものになりました。折角書いたので、ここに最初の原稿を載せておきます。

「訳者あとがき」
 本書は、シーラ・カーラン・バーナード著「Documentary Storytelling: Creative Nonfiction on Screen」第三版の日本語版である。編集上の都合から著者との協議によりドキュメンタリー作家とのインタビューを一部割愛した以外は原書に沿った内容 となっている。
 創造的にドキュメンタリーを作ろうという指南本である本書の英語のタイトルには、ドキュメンタリーと いう映像分野に対するいくつかの興味深い示唆がある。ドキュメンタリーは「Creative」、つまり 「創造的」であり得るのか。そして、ドキュメンタリーは「Storytelling」、つまり「物語」 を「語って」いいのだろうか。表紙のタイトルからいきなりそんな疑問を読者に突きつける、挑戦的な内容 でもあるのだ。
 「Story」という言葉からして、かなりの曲者だ。一般的に「Story」という言葉に対応する日 本語として用いられる「物語」という言葉を、日本の辞書がどう定義しているか見てみよう。
1.さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。
2.特定の事柄の一部始終や古くから語り伝えられた話をすること。また、その話。
3.文学形態の一つ。作者の見聞や想像をもとに、人物、事件について語る形式で叙述した散文の文学作 品。
4.歌舞伎、人形浄瑠璃の演出の一つ。また、その局面。時代物で、立ち役が過去の思い出や述懐を身振り を交えて語るもの。
 翻って「Story」を英語の辞書がどのように定義するか見てみる(訳者による訳)。
1.受け手の好奇心に訴えたり楽しませたり、内容を解説するために設計されたお話(本当でも創作でも構 わない)。
2.小説形式のものより短い創作された話。
3.小説、詩、ドラマにおいて表現される物事の連なり、または筋立て。
4.小噺や冗談という形で語られる出来事または物事の連なり。
5.語られたある人物の生涯、または物事の存在。
6.報告、連絡、主張、疑惑としての”話”。
7.報道記事。
8.嘘、作り話。
9.歴史(常用外)
 重なる意味合いを持ちつつも、実はかなり異なった観念を指していることがおわかりいただけるだろう か。「物語」の日本語の定義に「嘘」という項目はないが、「それってお話でしょ」と言ったときには「作 り話」という含みを持つ。しかし「Story」は「作り話」であると同時に「興味深く設計された本当の 話」でもあるのだ。ここをちゃんと押さえないと、タイトルを誤解したまま本書を読み進めて「ポイントが わからない」と感じる読者も出てしまうだろう。
 本文中に繰り返し登場する「物語」を「語る」という表現。つまりこれは「お話を作りましょう」という 作り話的な臭いのする創作行為を奨励しているのではない。徹底的に下調べして取材した素材を、「受け手 の好奇心に訴えたり楽しませたり、内容を解説するために設計しましょう」と言っているのだ。
 それが理解できると「Creative」という言葉に対応する日本語として用いられる「創作」という 言葉の居心地の悪さも一蹴される。「創作しちゃいなさい」と言っているのではなくて、「創作的」に事実 を表現しましょうと言っているのだ。
 「表現しましょう」と書いたところで、そこでも引っかかる人がいるかもしれない。ドキュメンタリーは 中立的な立場から客観的に制作されるべきではないのか?テレビというメディアの発展とともに認知されて いったドキュメンタリーという分野は、報道という分野と微妙な関係を持ちながら作られていた時期がある のは確かだ。しかし、実はドキュメンタリーがいかにジャーナリズムとは対極の、主体が存在し主観的な 「表現」でしかあり得ないかということは、森達也氏が自著『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を 丸々一冊使って解説しておられる。カメラを向ける者としての主体的かつ加虐的干渉なくして撮影も編集も あり得ない。そのような認識がドキュメンタリーの歴史の中で何度もリセットされてきたことが、そしてい かに「フィクションかノンフィクションかという明確な区分けは不可能だし、実は意味がない(角川文庫 『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』一五二ページ)」ということが、森氏の著書にわかりやすい 「Story」として解説されている。

 ドキュメンタリーの歴史と言えば、古くはフラハティ、ヴェルトフ、グリアソン、ローサといった映像作 家が頭に浮かぶ(この「作家」という表現も、実は何らかの葛藤なしには使えないのだが)。探検家だった フラハティ。キノ・プラウダ(映像の真実)を結成し、普通の市民の生活を映像的に再構成して真実を強調 しようとしたヴェルトフ。ドキュメンタリーは「創造的に処理された現実(creative treatment of actuality)」と発言しながらも、ドラマはブルジョワの贅沢であると断じたヴェルトフに同意し、社会的思想性を重視したグリアソンと、その弟子 ローサ。その後プロパガンダ映画や教育映画、テレビの記録映像などを経ながら何度もリセットされたド キュメンタリーの定義。それは作り手だけではなく受け手による再定義の歴史でもあった。日本のドキュメ ンタリー表現も、似て非なる文脈の中で何度も再定義されてきた。
 思えばリュミエール兄弟が『工場の出口』そして『ラ・シオタ駅への列車の到着』という、撮りっぱなし の映像を観客に見せた時から、フィクションとノンフィクションの曖昧な境界の周囲を漂い続けるドキュメ ンタリーという表現の正体は決定されていたのかもしれない。観客の涙を絞ろうが、本物の汽車が来たとば かりに飛び退かれようが、「全ての映像はドキュメンタリー(『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』二 六五ページ)」なのだ。    このような文脈と認識の延長戦上に、おそらく本書は書かれている。切り取った現実の片々をどのよ うに並べて三〇分、一時間、または六時間という「Story」として設計をするのか。そのためにはどの ようなアプローチが考えられ、何に気をつけながら構成しなければならないのか。超えてはいけない倫理的 基準は何か。著者はドキュメンタリーと倫理の問題を確定したものではなく、「始まったばかりの議論」と している。これは技術やメディア環境の変化によって変わらないわけにはいかないドキュメンタリーという 表現の本質的な性質を考えればもっともなことだ。カメラが手持ちで操作できるほど軽量になったとき、録 音機材が携帯可能になったとき、フィルムの感度が改良されて上がったとき、ビデオ機材が軽便になったと き、テレビ受像機が爆発的に増えたとき、アマチュアがカメラを手にすることが可能になったとき、誰でも 自分のコンピュータで編集ができるようになったとき、ドキュメンタリーは生まれ変わった。今や、その気 になれば携帯電話(敢えてスマホと言わない)で劇場品質の映像が撮れ、撮った動画をオンラインで世界中 と共有できる時代なのだ。そしてドキュメンタリーの性質が私たちとメディアの距離に応じて変化するもの である以上、そのアプローチも定義も鑑賞態度もうつろって当然だ。ドキュメンタリーを見る人の目は変わ り、作り手の意識も変わらざるを得ない。

 本書では、委託制作を求めて企画を売り込むすという行為が文中に何度も言及され、アメリカやイギリ ス、オーストラリア等のファンドやテレビ局の委託制作条件についての詳細もでてくるが、これはおそらく 現在ドキュメンタリーを取り巻く環境の変化を考えると日本の読者にとっても他人事ではない。常に良質な ノンフィクション映像作品を求めている世界が、そこから見える。もしかしたら委託制作料をもらって国際 版を作り、さらに日本国内版を制作するという契約も可能なのかもしれない。外を向いて作品を作るという 態度。実はこの部分が本書の白眉でもあるのだ。もしこの本を読んで、その挑戦を受けて立つドキュメンタ リー作家が現れたら、そんなに嬉しいことはない。最後にもう一回森達也さんを引用させていただいて、結 びとする。イギリスのシェフィールド・ドキュメンタリー映画祭で『A2』を上映し、BBCのディレク ターに声をかけられた時の顛末だ。

 「メディアはイギリスと日本とで違いはありますか」 僕は訊いた。 「まったくない。イギリスのメディアも日本と同じ構造上の問題を抱えている」  そうは言っても、あなたはこうして映画を観に来てくれた。しかもオンエアを本気で考えてくれている。 BBCは国営放送だ。よく比較されるNHKは公共放送。単純に考えればNHKのほうが自由度が高いはず だけど、『A』や『A2』を放映したいなどという申し出は、これまで一度もないですよ。そう言おうと 思ったけど、英語の構文が咄嗟に思い浮かばずに断念する。  夜には佐藤真と二人で街中のパブに出かけた。劇場内のパブよりは多少は安い。ドキュメンタリーよりも 何よりも、とにかく英語を勉強しなくちゃねと互いに言い合いながら、露店で買ってきたフィッシュアンド チップス(とにかく安くてボリュームは凄い)を肴に、二人ちびちびギネスを飲んだ。(『それでもドキュ メンタリーは嘘をつく』二〇一―二〇二ページ)

 世界から来るドキュメンタリーが数多くある一方で、世界に渡っていく作品がある。もうそんな実感は とっくに持っているというドキュメンタリー作家もいると思うが、そうでない読者のあなた。世界があなた を待っている。 ▽年〇月×日


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